逆境は女神を連れてくる

風評被害をうけて、当初は戸惑いましたが、むしろこの逆境を乗り越えるための「試練」と捉えるようになりました。奇しくも今日で8年目になります。今までが順調に推移してきたため、今回の件は青天の霹靂に思えました。また、裁判所は私たちの主張を認めて執行停止を決定しました。この裁判所の判断は私たちにとって今後の裁判の行方を占ううえでも有利な判断となりました。一方、今回のマスコミの「報道」を通じて、事実は伝わらないこと、事実は当事者でなければ決して分からないことなどを学ぶ機会となりました。私たちが何気なく目にしたり耳にしている事柄は、かなり脚色され巷に溢れる情報はいい加減なものであることを身をもって感じております。

何れにしても私たちは介護、在宅医療を地域に提供し最期まで慣れ親しんだ地域で安心して暮らせる環境を目指します。

行政処分について

2月14日に報道された行政処分について

風評被害を受けて困っております。

遅ればせながら、何が「真相」なのか、一部に関して簡潔にお伝えしたいと思います。

先ず、「食事もろくに与えず施設内に放置した」について。本人は希死念慮がありうつ傾向で食べるように促し口に入れても吐き出してしまう。気が向いたときに少し食べる。この繰り返しで体調がよくないときは入院もする。これを「放置」というのでしょうか。一方、食事量は一人ひとり違うものです。その人の体調に合わせていったらこの量に落ち着いたというのが本来と考えます。

また、人員基準(不正請求)については改善計画があるにも関わらず改善可能性無しとして処分しました。

事業は継続する方向で顧問弁護士と相談しております。

今後もナーシングホーム猿橋をよろしくお願いいたします。

イチローさん殿堂入りに思う

野球のことはよく知らないのですが、イチローさんは大好きというより尊敬しております。それも野球人としてというよりもイチローさんの人物としてです。イチローさんの言葉は私の心に響く言葉が多くあります。今回の殿堂入りのインタビューでも心に響いた言葉がたくさんあります。特に印象的だった言葉を一部ここにご紹介させていただきたいと思います。そして、なぜ心に響いたのか、たぶんそれはイチローさんが自分の言葉で淡々と少しもブレることなく紡ぎ出し語っていたからです。もしこの言葉が他人から借りてきたような中身だったら何も伝わらないでしょう。自分の腹落ちした言葉を発する時だけにしか相手には伝わらない、このこともイチローさんから学びました。これからもイチローさんは私にとって学びの対象であり続けると信じております。イチローさん、おめでとうございます! そして、ありがとうございます。

「才能ある人たちもたくさんいます。僕なんかもうとても比較にならないぐらい才能にあふれた人がいっぱいいます。でもそれを生かすも殺すも自分自身だということです。自分の能力を生かす能力はまた別にあるということは知っておいてほしい才能があるのになかなかそれを生かせない人はいっぱいいます。けがに苦しむ人もいます。自分をどれだけ知っているかということが結果に大きく影響していることを知っておいてマイナスはないと思います」(2025.1.22NHKインタビュー イチローさん)

リスクを許容しないパターナリズムの介護

コロナ前のことですが、ヨーロッパの高齢者の住まいを視察した研究者のお話しを伺ったことがあります。その話の中で一人の研究者がこう話されました、「最も印象的であったのは、高齢者の自立して暮らす意欲や覚悟でした。一定のリスクを許容し、人生の主体であることを決して手放さない態度、でした。」と。
翻って日本ではどうでしょうか、この地域で感じることは一定のリスクさえとろうとはせず「安全安心」が最優先され、少しでもリスクを感じると大事になってしまう狭量な社会風土がありませんか。この頑なまでの考え方が、高齢者の生きづらさにつながっているように思えてなりません。そのことが世界に比べて高齢者の欝や自殺者の多さが際立つ要因になっていることは否めないと思いますがいかがでしょうか?

参考文献 日本老年医学会 高齢者の自殺(2012)

 

 

 

←スタッフによる恒例のクリスマス演奏会が行われました。(12月25日)

死刑執行100%(寿命)

今年も残り僅かになりましたね。やり残したことはありますか? 年初めに計画したことはやり遂げましたでしょうか? 自分を含めてうなずく人は稀でしょうか。今年こそはとスタートした今年ももう最終コーナーです。後れを取り戻すには時間切れタイムオーバーですよ。

歳や時間を感じるタイミングは誕生日だったり、年末年始のこの時期でしょうかね。高齢の利用者さんが無事、新年を迎えられることの喜びはひとしおです。百歳近いお年寄りにとって、一日一日の命をつなげることがどれだけ大変なことか、この世界に入ってきて初めて分かったことです。明日にはもうないかも知れない命、毎日が死刑執行日の感覚です。この人にもう会えないかも知れない。いろんなことを話して教えてくれたこの人にもう会えない。そんな経験をこの仕事を通して幾度もしてきました。寿命という「死刑執行」、高齢者だけのことではなく自分も家族もみんな同じです。「無期懲役」であったなら、いつか会えるし、変えられる。でも死刑執行は空しいです。

明日死ぬかのように生きよ。永遠に生きるかのように学べ。

こんなこと考えながら生きている奇特な人はいないでしょうね。
施設のご利用者さんでもうお歳は90代半ばですが、何が楽しみですかとお尋ねしたところ「寝る前に読書をするのが楽しみだ、次のページにどんなことが書いてあるのかワクワクしながらページをめくる、歳なので何ページも読めないが一葉一葉、心に染みる言葉に触れる、こんな楽しいことはないな」と私にお話ししてくれました。

自分はこの方のような年齢になってもワクワクしながら本のページをめくろうとする学びの姿勢を持っているだろうか。最近はスマホばっかりで読書離れが指摘されているが、学力の差が国力の差につながっていることは火を見るよりも明らかです。学力さえも経済力が影響する昨今、格差は広がるばかりで、学ぼうとする人は稀だ。この歳になって今さらとはじめから学ぶ気はさらさらない。するとどうなるか、自分の狭い価値観のなかで見えるはずの世界も目には映らず、閉ざされた狭い世界の住人で生涯を終えてしまうのでしょう。読書には可能性の扉を開く大きな力を持っています。しかし、多くの人がそのことを知らない。

先の90代の利用者さんの読書は生きる力になっているのでしょう。失礼ながら年齢的には明日死ぬかもしれなけど、永遠に生きるかのように学ぶ姿勢。私は恥ずかしながらその利用者さんから読書の楽しさ大切さを、そして学び続けることの大切さに気付かされました。寝る前にニーチェかサルトルを読もうかな。

三毒

仏教の教えに「三毒」がある。貪欲、怒り、無知だ。「貪欲」介護の世界でもこの三毒には悩まされる。自己の利益に拘泥するあまり他人の利益を搾取する。たとえば、介護を必要としている人たちに最適なサービスを提供しようとしても、自分の利益を優先してしまうケアマネさんは少なからず存在する。そんなケアマネさんにつかまったら災難だ。「怒り」仏様ではない限り人は感情にまかせて道理を踏み外してしまうこともある。ただ、その怒りを感じつつも自制できる人もいる。多分、感情に振り回されて過去に大きな痛手を経験して「成長」し、今の一角の人物になったのだろうかと想像せずにはいられない自分が情けない。「無知」教養の欠如した状態といえるかも知れない。決して知識量ではないのは言うまでもない。無知は、はた迷惑でもある。知ったかぶりをして口先三寸である。無知が専門家ずらしてのたまう姿は見られたものではない。この無知な人が公権力を笠に持論を通そうとするとどうなるか。迷惑な上に実害が生じる。困ったものだ。「三毒」に侵されたくなければ人知れず努力する姿勢が欠かせない。

失敗を許さない社会はどうなるのか?

神経症な人がいます。心配事が小さい心を占領し、ノイローゼ気味で体調を崩してしまいました。心配で食事ものどを通らない、だんだん痩せてきました。こうなったのは、自分のせいではなく、誰かのせいだと。
ある程度、人生を生きてこられた人にとって、この世の中にこれが絶対正解だということはないということは了解されていると思われます。時代と共に価値観やルールが目まぐるしく変化するのが世の常です。
一体何が「正解」なのか、それは「人」を相手に考えると、あらぬ感情に揺さぶられて判断を誤ります。なので「人」ではなく「天」を相手にすることで、すっきり閃くものが光のように見えてくるように思えます。それは「天明」かも知れません。
混沌とした世の中にあって、これが正解ですと胸を張って言えることってほんの僅かでしかないでしょう。

先の神経症の人は「失敗を許さない」タイプなのかも知れません。
相変わらず、日本は自殺大国です(先進国で第一位、厚労省2018年)

いつか君も必ず死ぬ

店頭から米が消えたと大騒ぎ、かなり昔のオイルショック時代を知っている50代以降の方は、またかという既視感がありますよね。なので、要らぬ恐怖感に襲われて買いだめに走る愚かさを経験している人たちにとっては、「なんでそんなに大騒ぎしなさんの?」でしょうか?
なんでかマスコミもまくしたてるような報道の在り方。みなさまも扇動されるような噂や報道には踊らされないように心しましょう。

タイトルに「いつか君も必ず死ぬ」としました。この米が店頭から消える騒動を見て、このタイトルを思いつきました。
もし自分がガンで余命宣告され後1年の命ですよと言われたら、何を考え、どう行動するのでしょう? つまり、「自分の死を見つめながら生きる」・・この感覚をもって生きていると何が大切なのか混沌とした世間を前にしながらも、クリアな大切なものが浮き彫りになるのではと僕は思いますが。もし、自分が明日死ぬとしたら、米騒動で大切な一日を終わらせるようなことはしないはずです。
そんな目で見ると「どうでもいいこと」にすぎませんか? この地上から米が永遠に消え去ることはありませんし、それに代わるものを食べればいいわけですよね。心配し過ぎ、その時間がもったいないですよね。

「いつか君も必ず死ぬ」・・明日かも知れない。大切なことは何か、この死を見つめながら生きることで見えてくると思います。

ご無沙汰しております

いろいろありまして、ブロブの更新は後回しになってしまいました。

相変わらず暑いですね。温暖化というより、むしろ熱帯化といった方がいいくらいの猛暑の連続ですね。今日も気温40℃に迫ろうとしています。
地球は怒っているのかも知れませんよ。人類が誕生して約40万年と言われていますが、その間、人類は技術を開発して、さまざまなモノを生産してきました。それは地球という資源を利用してです。言い方を変えれば、40万年の間、ひたすら人類は地球という資源から搾取し続けて来たといえますね。
地球人の私たちは、この温暖化の原因が何であるかもう気付いています。行き過ぎた経済至上主義、大量生産-大量消費の時代に、もう終止符を打たなければ人類は破滅に向かうだろうことは誰もが気付いています。
ただ、なかなかそれを止められないし、やめられない。一度知ってしまった蜜の味は忘れがたいのでしょうか。
でも、行き過ぎた経済至上主義にブレーキを踏まなければ事態は悪化するだけです。
だから、私たちにできることから始めましょう。たとえば、一年中エアコンを付けているのであれば、季節のいい日は窓を開け放つとか車のエアコンも同様にすれば省エネになるでしょう。つまり、一人ひとりが気を付ければ大きな力になるものです。企業任せではなく、一人ひとりが取り組むことで温暖化に歯止めがかかるでしょう。