「真摯さ」—ドラッカー流トップが示すべきもの—

サントリーホールディングスの新浪剛史前会長が9月1日付けで辞任した。

私は起業する前に新浪氏の言動に感銘を受け私淑していた者の1人だった。ローソンを軌道に乗せた氏の手腕や熱意は「現場」感覚のエネルギーで溢れていたものだった。ところが、今回の辞任の記者会見では、その当時の熱量は新浪氏から微塵も感じられなかった。「言い訳」「保身」にはしる新浪氏の態度は「真摯さ」の対極にある姿だった。

組織のトップは社会的な存在である。単に利益を積み重ねるだけの経営者では「トップ」とは言えない。パーパス(志)が問われているのだ。自分だけ、会社だけよければそれでいい。世界の仕組みはそんなトップを見逃すことはない。

「真摯さ」がなければトップの存在意義はない。その真摯さとは何か。ドラッカーは「道徳」「徳性」といった概念で示している。

一方で、ドラッカーは「真摯さを明確に定義するのは難しい」としつつも、真摯さの欠如が示す行動と特徴を次のように整理した。

「人の強みより弱みに目がいく者」「何が正しいかより、誰が正しいかに関心を持つ者」「真摯さよりも頭の良さを重視する者」「有能な部下に脅威を感じる者」「自らの仕事に高い基準を設定しない者」。また、ドラッカーは真摯さとは、生まれつきの才能ではなく、日々の行動や決断を通じて磨かれるとしている。

新浪氏は記者会見で自らの「潔白」を次のように述べた。「同友会には透明性の高いガバナンスがあるので判断を任せる」「警察から捜査を受けた会長・社長は絶対に辞めないといけないのか。私はそういう前例を絶対つくってはいけないと思う」……(新浪氏談)。この「潔白表明」に私は違和感を覚えた。「保身」である。もはや真摯さのかけらも感じられない。徳性を求められるトップの姿はどこにもなかった。

「驕る者久しからず」…..残念である。

初めての「サイバン」—法律は美しい—

いよいよ裁判が始まりました。初めての経験ですが、見識のある人からすれば勝敗はすでに見えてしまっています。それほど福祉行政側の処分内容が杜撰を極めているということです。

審理が確定したとき、福祉行政(処分当時)の実態が白日の下に晒され、今度こそマスコミは真実を報道することになるでしょう。まだ審理はしばらく続きますが、まともな人間なら検証を待つまでもなく既に結果が見えております。

さて裁判の様子ですが、まず「準備書面」を被告、原告とも両者が裁判所に提出します。これは被告、原告の言い分が記載されている書面です。それぞれの主張に反論を順次繰り返されます。今までの印象として、論証が科学的でとても美しいということです。演繹的、帰納法的論証は人間の感情を超越した神秘的な感動を呼ぶ美しさです。この美しい法律のフィルターを潜り抜けた珠玉の言葉たちが積み重なって、やがて人が人として守らなければならない金科玉条へと導かれるのでしょう。ですので、書面の中にいるぼやけた言葉たちは行き場を失って自滅の道をたどるしか方法はありません。

あらためて「法」って何だろうと考えさせられました。私が学生の頃、法律(憲法)を意識するような日常はよくない、と教授が言っていたことを思い出しました。確かに、何かトラブルがないと法を意識することはありませんよね。そういう意味で教授が言ったのでしょう。しかし現状、ことが起きてしまったからには法を意識しないわけにはいけませんね。法は結局「人としてどうあるべきか」が問われているのだと大学時代の記憶がよみがえりました。すごく哲学的なのです。

裁判はしばらく続きますが、既述したようにおおよその目安はついてきました。やはりというか当然というべきか、「人としてどうなの?」そう言った姿勢・態度が浮き彫りになりつつあります。動機が不純であれば法は必ずそれを見透かします。「天網恢恢疎にして漏らさず」でしょう。

演奏会♬

スタッフによる演奏会が行われました。いつもすぐに帰宅したがる利用者様が演奏会が終わるまでじっと音楽に聞き入っていました。音楽の持つ力、本当に素晴らしいですね。ちなみにわたくしは「見上げてごらん夜の星を」が良かったです。                          

レジェンド、F氏からの返信

おっしゃる通り、福祉行政ではいまだに窓口天皇のような方がたくさんいらっしゃいます。

我々としては、行き過ぎた指導に関しては法的に厳格に対応していきましょう。

このままでは書類優等生だけが生き残る業界になってしまいます。

ミスと不正を混同してしまう困った人たち

知る人ぞ知る福祉業界のレジェンド、F氏の投稿をシェアさせていただきます。
私自身が体験した厳しい現実として、メディアで一度取り上げられたことで、その事業所や担当者が行っている福祉活動全体が一度に全て否定され、すべてを失ったという経験があります。
このような体験をして、私が強く感じるのは、福祉業界において本来目指すべき「ソーシャルインクルージョン(社会的包摂)」という理念が業界全体で薄れているということです。
社会的包摂は、多様性を尊重し、全ての人々が共生する社会を作ることを目指していますが、現在の福祉業界では、過去の一度の失敗やミスをもって、その人やその団体を排除する風潮が非常に強まっています。
福祉業界の本来の使命は、誰でも受け入れ、共に支え合い、成長していくことです。
しかし、近年ではその理念が薄れ、しばしば「失敗」を許さない業界になっているように思います。
確かに介護保険法を完璧に守ることは重要です。しかし、福祉業界において全てを100%完璧に守れている事業所が一体どれくらいあるでしょうか?実地指導で1箇所も指導されない事業所は本当にあるのでしょうか?
法律を守ることは当然ですが、人間が行う仕事には必ずミスが生じることがあり、過度にそのミスを非難し、排除することは逆に福祉の本質を失わせることになります。
一度のミスが排除の理由とされる限り、本当の「包摂」は実現できません。
むしろ、ミスをした人々や事業所が外部から排除されることで、福祉を必要とする人々が必要な支援を受けられなくなるリスクも生まれます。
この状況が続けば、福祉業界は自己防衛的で閉鎖的な社会になり、助け合いの精神は消え失せてしまいます。
さらに、業界内で叩き合っても何も改善されないという現実もあります。
不健全な競争や対立を煽っても、根本的な問題は解決しません。
むしろ、内部での争いは、福祉の質を低下させ、社会的包摂から遠ざかる結果を招いてしまいます。
そこで、第三者評価の義務化も検討してはどうかと思います。
他にも多くの方法がありますが、第三者評価の義務化はオプションの一つとして重要な手段ではないかと思います。
第三者評価の義務化によって、各事業所の運営状況を透明化し、適切な評価を受けた事業所にはその結果に基づいた報酬が与えられる仕組みが整うことで、業界全体の質が向上することが期待できるのではないかと。
制度や仕組みで合理的に業界全体を改善していく方向性に進むべきだと切に願っています。
制度化された評価システムと報酬単価の設定は、業界にとって公平で透明な基準を提供し、個々の事業所の努力を反映させることができます。
これによって、排除や攻撃ではなく、共に学び、改善し合うという文化が根付いていくことが期待できます。
福祉業界の使命は、弱い立場にある人々を支え、共に生きていける社会を作ることです。
排除や攻撃ではなく、寛容と理解を基に、困難な状況を乗り越える力を育むことこそが、福祉の根本的なあり方だと思います。
私たちが目指すべき福祉の社会とは、互いに支え合い、共に成長することができる包摂的な社会です。
そのためにも、業界内での叩き合いや排除の風潮を改め、制度や仕組みを整えて、全体を改善する方向へ進んでいくべきだと強く思います。(F氏)
ミスと不正は混同しないように気をつける必要があります。医療介護福祉の事業は、その収入の多くは公的財源からです。公の資金を不正に受領することは重大な犯罪です。特に不正と意図してそれを行う事業者に対しては厳しい対処、そして業界も自浄作用を発揮することが必要だと考えます。(関戸)

理不尽・・なんだかなぁ

風評被害をうけて、当初は戸惑いましたが、むしろこの逆境は乗り越えるための「試練」と捉えるようになりました。奇しくも今日で8年目になります。今までが順調に推移してきたため、今回の件は「不条理」をこれでもかと突き付けられ、その不条理にどのように対峙するべきか、ただ、ここで黙って退散する選択肢はありませんでした。幸い、裁判所は私たちの主張を認めて執行停止を決定しました。この裁判所の判断は私たちにとって今後の裁判の行方を占ううえでも有利な判断となりました。一方、今回のマスコミの「報道」を通じて、事実は伝わらないこと、それもかなり捻じ曲げられ、事実は当事者でなければ決して分からないことなどを痛感しました。私たちが何気なく目にしたり耳にしている事柄は、かなり脚色され巷に溢れる情報はいい加減なものであることを身をもって感じております。また行政は公器であり公正中立であると信じていましたが裏切られました。我々を守ってくれるのは司法だけでしょうか。

何れにしても私たちは介護、在宅医療を地域に提供し最期まで慣れ親しんだ地域で安心して暮らせる環境を目指します。

行政処分について

2月14日に報道された行政処分について

風評被害を受けて困っております。

遅ればせながら、何が「真相」なのか、一部に関して簡潔にお伝えしたいと思います。

先ず、「食事もろくに与えず施設内に放置した」について。本人は希死念慮がありうつ傾向で食べるように促し口に入れても吐き出してしまう。気が向いたときに少し食べる。この繰り返しで体調がよくないときは入院もする。これを「放置」というのでしょうか。一方、食事量は一人ひとり違うものです。その人の体調に合わせていったらこの量に落ち着いたというのが本来と考えます。

また、人員基準(不正請求)についてはそもそも、架空請求等ではありません。人員を偽っておらず、勤務データをそのまま提出しているにもかかわらず、それでも市は基準を満たしているように「装う」って不正請求していると主張しています。市の装う意味が理解出ません。粉飾は悪質でそれが「不正請求」ということです。粉飾がなければ単なるミスです。単にミスを処罰するのは行き過ぎです。これは誤りを正せば済むことで「過誤調整」で請求額を調整すれば済むことです。「不正請求」の捉え方に疑問があります。悪質かどうかの判断基準が疑わしいです。

事業は継続する方向で顧問弁護士と相談しております。

今後もナーシングホーム猿橋をよろしくお願いいたします。

イチローさん殿堂入りに思う

野球のことはよく知らないのですが、イチローさんは大好きというより尊敬しております。それも野球人としてというよりもイチローさんの人物としてです。イチローさんの言葉は私の心に響く言葉が多くあります。今回の殿堂入りのインタビューでも心に響いた言葉がたくさんあります。特に印象的だった言葉を一部ここにご紹介させていただきたいと思います。そして、なぜ心に響いたのか、たぶんそれはイチローさんが自分の言葉で淡々と少しもブレることなく紡ぎ出し語っていたからです。もしこの言葉が他人から借りてきたような中身だったら何も伝わらないでしょう。自分の腹落ちした言葉を発する時だけにしか相手には伝わらない、このこともイチローさんから学びました。これからもイチローさんは私にとって学びの対象であり続けると信じております。イチローさん、おめでとうございます! そして、ありがとうございます。

「才能ある人たちもたくさんいます。僕なんかもうとても比較にならないぐらい才能にあふれた人がいっぱいいます。でもそれを生かすも殺すも自分自身だということです。自分の能力を生かす能力はまた別にあるということは知っておいてほしい才能があるのになかなかそれを生かせない人はいっぱいいます。けがに苦しむ人もいます。自分をどれだけ知っているかということが結果に大きく影響していることを知っておいてマイナスはないと思います」(2025.1.22NHKインタビュー イチローさん)

リスクを許容しないパターナリズムの介護

コロナ前のことですが、ヨーロッパの高齢者の住まいを視察した研究者のお話しを伺ったことがあります。その話の中で一人の研究者がこう話されました、「最も印象的であったのは、高齢者の自立して暮らす意欲や覚悟でした。一定のリスクを許容し、人生の主体であることを決して手放さない態度、でした。」と。
翻って日本ではどうでしょうか、この地域で感じることは一定のリスクさえとろうとはせず「安全安心」が最優先され、少しでもリスクを感じると大事になってしまう狭量な社会風土がありませんか。この頑なまでの考え方が、高齢者の生きづらさにつながっているように思えてなりません。そのことが世界に比べて高齢者の欝や自殺者の多さが際立つ要因になっていることは否めないと思いますがいかがでしょうか?

参考文献 日本老年医学会 高齢者の自殺(2012)

 

 

 

←スタッフによる恒例のクリスマス演奏会が行われました。(12月25日)

死刑執行100%(寿命)

今年も残り僅かになりましたね。やり残したことはありますか? 年初めに計画したことはやり遂げましたでしょうか? 自分を含めてうなずく人は稀でしょうか。今年こそはとスタートした今年ももう最終コーナーです。後れを取り戻すには時間切れタイムオーバーですよ。

歳や時間を感じるタイミングは誕生日だったり、年末年始のこの時期でしょうかね。高齢の利用者さんが無事、新年を迎えられることの喜びはひとしおです。百歳近いお年寄りにとって、一日一日の命をつなげることがどれだけ大変なことか、この世界に入ってきて初めて分かったことです。明日にはもうないかも知れない命、毎日が死刑執行日の感覚です。この人にもう会えないかも知れない。いろんなことを話して教えてくれたこの人にもう会えない。そんな経験をこの仕事を通して幾度もしてきました。寿命という「死刑執行」、高齢者だけのことではなく自分も家族もみんな同じです。「無期懲役」であったなら、いつか会えるし、変えられる。でも死刑執行は空しいです。