運営推進会議で起きたこと——事実をありのままに記録する

2ヶ月に1度、当施設では「運営推進会議」が開催されています。これは介護保険制度上の規定に基づくもので、事業所が地域に対して運営状況を報告し、地域住民代表・利用者家族・市町村職員等から評価や意見をいただく場です。地域に開かれた対話の場として、制度の根幹をなす会議です。

(残念ながら、昨年の処分公示以来、風評被害の影響からか参加者が大幅に減少しています。これ自体、地域の介護にとって大きな損失だと感じています。)


今回の会議で起きたこと

5月の推進会議において、市の職員がテーブル上に録音機を設置し、「議事録の文字起こしのために録音させていただきます」と述べました。

会議後、私はすぐに地域の他の介護事業所に確認しました。

結果は明確でした。**文字起こしを目的とした録音機の持ち込みは、他の事業所では一切行われていません。**当施設だけが録音されていました。


この事実が問いかけること

同じ制度のもとで運営する事業所に対し、一方だけに異なる取扱いをすることは、行政の基本原則である平等原則(日本国憲法第14条第1項)に照らして問題があります。

また、会議には利用者家族・地域住民の方々も参加されます。参加者全員の同意なく発言が録音されることは、個人情報の保護に関する法律第61条第2項が定める利用目的の明示義務との関係でも疑問が残ります。

さらに、現在当施設と大月市の間では取消訴訟が係争中です。録音がその訴訟と無関係かどうかは確認できていませんが、係争中の相手方に対してのみ行われる録音という事実は、日本国憲法第32条が保障する裁判を受ける権利の観点からも、慎重に考える必要があると感じています。

加えて、運営推進会議は地域との対話の場として設置目的が明確に定められています(指定地域密着型サービスの事業の人員、設備及び運営に関する基準第85条)。その目的の範囲内での録音かどうかも問われるべき点です。


会議の場で感じたこと

今回の会議では、市の職員が4名参加されていました。小規模自治体の推進会議としては異例の人数です(一般的に多くても2名)。

気になったのはその構成です。4名のうち2名は、会議を通じて一言も発言されませんでした。対話の場として機能させるためには、参加者が自由に発言できる雰囲気が前提です。しかし実際の場の空気はそれとは異なるものでした。

自由な発言が生まれない会議は、制度の目的を果たせません。これは当施設と市の関係の問題にとどまらず、運営推進会議という制度そのものの在り方に関わる問題だと思います。


私たちが望むこと

私たちは、大月市や市の職員の方々と敵対したいわけではありません。

行政が誤った判断をしたのであれば、それを正し、同じことが二度と起きないよう仕組みを改善すること——それこそが、地域の信頼を守り、行政と住民が協働するための第一歩だと考えています。

裁判の目的は勝ち負けではなく、何が正しいかを明らかにすることです。その場に関わるすべての人が、その本質に立ち返っていただければと思います。

行政も住民も、目指すべきは同じはずです。地域に暮らす人々が安心して介護を受けられる環境を守ること。その一点において、私たちと大月市の方向は一致しているはずだと、今も信じています。

今後も、事実をありのままに記録し、皆さんにお伝えしていきます。


特定非営利活動法人ラクーダ 代表理事 関戸元彦


【注記】 本記事は現在係争中の訴訟(甲府地方裁判所)に関連する事実を含みます。記載内容は公開情報および当事者として確認した事実に基づいており、特定個人の名誉を傷つける意図はありません。事実関係に誤りがある場合はご指摘ください。

裁判官動く、新たな局面! ー市の判断は本当に正しかったのか???ー

  1. 四コマ漫画風に2バージョンでどうぞ・・
    現在進行中の裁判の様子↓


たとえば、人員基準の市の担当者の考え方こんな感じ↓

これらはすべて認知行動理論で説明可能な典型的な思考パターン(確証バイアス+感情ヒューリスティックに陥ったヒューマンエラーです。初歩的な判断ミスさえ察知できないほどの、市の内部統制の脆弱性が露呈しましたね。

行政も間違うことは人間ですのであります。住民の皆様も自分の町の未来を守るためにもそして、一納税者として市政に関心を持ち、正しく疑問を持ち対話を重ね、過ちを正して住みよい大月市にしていきましょう。豊かな対話のない我が町に明るい未来はあり得ませんから。(関戸 元彦)

君は悪くない ー構造的欠陥ー

どこかのトップリーダーが「部署を刷新した」・・と言ったそうだ。

人を入れ替えただけで問題が改善するなら苦労はない。刷新し変わらなければならないのは「人心」だ。

「刷新」とはビジネス上、人の入れ替えだけで済むものでないことは常識。たとえ、「人」の入れ替えはなくてもマインドセットを整えるための「教育」が不可欠。

新たな年度がスタートして1カ月経過したが、新しい部署や組織の中で目標を見出せず悶々と過ごしている方も少なくないだろう。自分には適性がないのか能力不足なのか。そう自問自答することからチャレンジは始まるものだ。その「自問自答」が肝心。文字通り自分に問うてみる姿勢だ。その姿勢がなければどんな優秀な頭脳でも暴走が始まることは世の常。

自問自答に似た概念で福祉医療の用語に「自己覚知」というキーワードがある。その暴走を食い止める視点が「自己覚知」だ。自分を客観視する意識、メタ認知ともいう。自分は何を意識して、一体何をしようとしているのか。自分の心の中を覗くこと。

どんなに見せかけだけの形を変えてみても、人心は変わることは決してない。そこには「動機付け」を促す「教育」が欠かせない。大それたことでなくてもいいから、「利他」を軸とした内発的な動機が肝要だ。とはいえ、人はもとより自己中心的な生き物。だからこそ強いて利他を意識しなければならない。まともな組織はどこもそのことに気付いている。人を入れ替えただけで解決すると考えるのは思慮に欠けている。

そのことに組織のリーダーが気付いていないのは構造的な問題を生みかねない。直接、間違った判断をしたのは、末端の職員かも知れないが、内部統制のとれている健全な組織であれば未然に防ぐことが可能だ。内部統制が欠落した構造的欠陥が末端の職員を通して問題が顕在化しただけ。問題の本質は言わずもがなだ。

私どもは介護保険という「税金」を原資に運営している。税金という公的資金を使わせていただいている責任はいつも重く感じている。この自覚はこの仕事を始めてからさらに強くなった。自由経済活動ではなく公共事業だ。税金という血税を原資としている自覚はどこかのトップリーダーにはあるのだろうか。

「ご都合主義」 ー信念を貫くにはー

私は当時、熱い思いを胸にして介護事業を起業しました。その思いを引っ提げて8年たった今、自分が残念に思うことそれは、この世の中「ご都合主義」で動いてることが結構多いという事実です。

熱い思いで当たっても冷めた人たちには響きません。それより目先の「ご都合」が優先されます。何が自分にとって「損か得か」。そんな人たちに熱い思いをぶつけても時間の無駄であることが、今回の行政訴訟を通して実感することになりました。

信念を貫こうとすれば、ご都合主義の世界では生きずらくなり、信念は風前の灯火になってしまいかねません。その信念を貫くためにはどんな試練にも怯むことなくその試練を糧とするパワーが不可欠です。信念をもって生きてゆこうとすれば、ご都合主義の壁に必ずぶち当たります。

しかし本物の信念はそのご都合主義の壁を越えていきます。今がまさにその時です。そしてその壁を越えてその先へ進めます。

ご都合主義の世の中でも愚直に信念を貫こうとする人たちが少なからずいます。

そもそもご都合主義が世の中を変えることも楽しくすることもあり得ません。それは自己中の世界観だからです。

あれから1年―何があったのか?―

約1年前、風評の影響により、数名の利用者さんが残念ながら当施設を離れることになりました。
その後の経過を知る中で、私にとって非常に重い事実がありました。

施設を去られた元利用者のうち、およそ7割の方が亡くなられているのです。しかも、その多くが半年以内でした。

医療・福祉の分野ではよく知られていますが、高齢者が長く慣れ親しんだ生活環境から離れ、新しい環境へ移ることによって心身に大きな負担が生じることがあります。これは「リロケーションダメージ(環境移動によるダメージ)」と呼ばれています。

もちろん、すべてを単純に結びつけて考えることはできません。しかし、当施設に残られた利用者さんは、現在のところ誰一人亡くなっていないという事実もあります。

慣れた環境にとどまった方々は皆さんご存命である一方、環境を移られた元利用者の多くが短期間のうちに亡くなられた。この差を前にして、私たちは何を考えるべきなのでしょうか。

医療・福祉の専門家の間では、環境の変化が高齢者に大きな影響を及ぼすことは以前から指摘されています。私自身もその可能性は危惧していましたが、結果として7割という数字を見ることになり、正直なところ想像以上でした。

亡くなられた方々は、当時とてもお元気で、すぐに命に関わるとは思えないほどの状態でした。それだけに、もしあの時状況が違っていたらと、悔しい思いが残ります。

近年、地域コミュニティの希薄化が指摘されて久しくなりました。しかし、高齢者や障がいのある方にとっての「居場所」は、これまで以上に丁寧に考えられるべき大切なテーマだと感じています。

それは決して他人事ではありません。
自分や家族の将来にも関わる問題です。

一人ひとりが少しだけ「自分ごと」として考えることができれば、この地域も、もっと安心して暮らせる場所になっていくのではないでしょうか。

今回の出来事が、私たちに何かを考えるきっかけを与えてくれることを願っています。

模擬裁判ー双方の反論(準備書面)をもとに構成ー

現在まで複数回審理が行われました。今回は、原告側・被告(市)側双方の準備書面(裁判所に提出された公文書ですが公開は差し控えさせて頂きます、必要であればご相談ください)を踏まえ、もし裁判官であればどのような判断に至るかという観点から、友人の法律家と法的論点を整理した私見をまとめてみました。実際の裁判所の判断ではありませんのでご留意ください。

行政処分の適法性、事実認定、処分基準の運用、聴聞手続の在り方など、介護事業の現場にも直結する重要なテーマを扱っています。関心のある方の参考になれば幸いです。

結論(裁判官としての判断)

結論:本件指定取消処分は違法であり、取消す。

理由は以下の4点が決定的です。


判断理由(裁判官としての意見)

1 事実認定に重大な誤りがある(行訴法30条:裁量権の逸脱)

●(1)人員基準違反の認定は不適切

被告は「管理者・計画作成者・介護従事者の兼務」を事実上否定し、原告関戸氏の勤務時間を恣意的に分割している。
しかし、

  • 基準省令は兼務を明確に許容
  • 同一建物内での兼務は全国的に広く認められている
  • 被告は兼務を否定する明確な自治体基準を持っていない
  • 原告の勤務実態(8時間介護従事)は客観資料と整合

以上から、被告の人員基準違反認定は「重要な事実の基礎を欠く」。

●(2)食事量・カロリー計算は医学的根拠を欠く

被告の計算は

  • 利用者の自宅での食事を考慮していない
  • 医学的指標(アルブミン値・血糖値・酸素飽和度等)を一切検討していない
  • 追加食材の存在を無視
  • 1日3食の総量を推計で置き換えている

これは「行政処分の基礎となる事実認定」としては著しく不十分であり、裁量権の逸脱に該当する。

●(3)A氏の体重減少と介護との因果関係が立証されていない

高齢者の衰弱・体重減少は医学的評価が不可欠であるが、被告は医師の意見書も医学的データも提出していない。
行政処分の根拠としては到底足りない。


2 処分基準の処理手順を踏んでいない(裁量権の濫用)

厚労省の「処分基準の考え方の例」は、全国の自治体が採用する実質的な裁量基準である。
その手順は明確で、

  • 運営基準違反 → 標準は「勧告」
  • 人格尊重義務違反(虐待) → 標準は「全部停止3か月」
  • そこから加重・軽減事由を勘案

という段階的判断が求められる。

しかし被告は、

  • 最初から取消処分ありき
  • 勧告・命令・停止という段階的手順を完全に無視
  • 加重・軽減事由の検討をした形跡がない

これは「処分基準の適用を欠く」=裁量権の濫用に該当する。


3 聴聞手続に重大な瑕疵がある(行手法13条・18条・22条)

  • 代理人の参加を妨害
  • 文書閲覧の機会を実質的に奪った
  • 続行申請を不合理に拒否
  • 主宰者が処分庁の職員で中立性を欠く

聴聞は「重大な不利益処分の前提となる憲法上の手続保障」であり、
このような運用は「手続の実質的欠落」と評価され、取消事由となる。


4 比例原則違反(行訴法30条)

  • 利用者の生活の継続性
  • 取消処分による法人・役員の5年間の欠格
  • 地域の介護資源の喪失

これらの不利益に比して、

  • 違反事実の立証は不十分
  • 勧告・停止という段階的手段が存在
  • 取消しという最終手段を選ぶ合理性がない

よって「処分の重さが著しく均衡を欠く」。


最終的な判決文(要旨)


主文

被告が令和○年○月○日付で原告に対して行った指定取消処分を取り消す。


理由(要旨)

  1. 被告の事実認定には、管理者兼務の法的解釈、食事量の評価、A氏の体重減少の因果関係等において、重要な事実の基礎を欠く点が多く、裁量権の逸脱が認められる。
  2. 被告は厚生労働省の処分基準に基づく段階的判断手順を踏まず、いきなり取消処分を選択しており、裁量権の濫用が認められる。
  3. 聴聞手続において代理人参加の妨害、続行申請の不合理な拒否等、重大な手続的瑕疵が存在し、適正手続を欠く。
  4. 取消処分は利用者・法人に過大な不利益を与え、比例原則に反する。

以上より、本件処分は違法であり、取消しを免れない。


裁判官としての付言(判決の最後に書く「意見」)

本件は、行政庁が介護事業者に対して行う監督権限の行使として極めて重大な処分であるにもかかわらず、
事実認定・手続・量定のいずれにおいても慎重さを欠いた事案である。

特に、利用者の生命・身体の安全を守るという行政目的は重要であるが、
その目的を理由に手続保障を軽視することは許されない。

行政庁は、今後、

  • 事実認定の精度
  • 医学的根拠の確保
  • 聴聞手続の適正な運用
  • 処分基準に基づく段階的判断
    を徹底し、
    介護サービスの質の確保と事業者の権利保障の双方を調和させる必要がある。 以上。

★         ★         ★

模擬裁判では上記のような結論に至る蓋然性が極めて明確な事案です。後は行政がどのような姿勢・態度を示すのか注視したいと思います。これは決して他人ごとではありません。住民皆様の行政サービスに直接かかわる一端です、まさにこの町に住むあなた自身のこと。

いよいよ大月市行政の実態が浮き彫りになる局面を迎えます。大月市の理念である「信頼と協働のまちづくり」が口先だけかどうかが如実に表れます。マスコミも注目しております、住民の皆様も自分の住む町の政です。他人事ではありません、「明日は我が身」、自分事です。納税者であるあなたの町の市政に関心を寄せていただければ幸いです。(関戸 元彦)


 

 

新しい年の始まりに、今お伝えしたいこと

新しい年を迎え、地域の皆さまには日頃より温かいご支援をいただき、心より感謝申し上げます。
12月のブログでは、一年間の歩みを振り返りながら、行政との対話の必要性について触れました。
今回は、その続きとして、現在の状況をできるだけわかりやすくお伝えしたいと思います。

私自身は、今回の手続の流れから“指定取り消しありきを前提に進められたのではないか”という印象を持っています。


いま争点になっているのは「人員配置基準」です

介護事業所には、決められた人数の職員を配置するルールがあります。
これは、利用者の皆さまが安心してサービスを受けられるようにするための大切な基準です。

私たちはこの基準を守るために、

  • 職員の勤務記録
  • 実際のシフト
    などを整えて運営してきました。

しかし、市は一部の職員について、実際に働いていた時間を「勤務していない」と扱っている状況です。
その理由は、残念ながら示されていません。


私自身の勤務時間も、実態と異なる形で扱われています

市は、私の勤務時間を次のように区切って計算しています。

  • 介護職員として 2時間
  • その他雑務の時間

これは、監査の際に私が「たまたま前日の動き」を説明した内容を、
「毎日この通り働いている」と決めつけてしまったものです。

実際には、日によって必要な業務が異なり、時間の使い方も変わります。
それを一度の聞き取りだけで固定されてしまうのは、どうしても無理があります。


裁判で問われているのは「なぜ市がそのように判断したのか」です

私たちは、勤務記録や職員の説明など、事実に基づく資料をすべて提出しています。
それでも、市が勤務時間を否認したり、私の勤務時間を恣意的に区切った理由は示されていません。

裁判では、
「市がなぜそのような判断をしたのか」
が大きな争点になっています。

12月のブログでお伝えしたように、私たちが求めているのは対立ではありません。
必要なのは、事実に基づく説明と、丁寧な対話です。


新しい年も、日々のケアを大切に

行政とのやり取りが続いていても、利用者の皆さまの生活は毎日続いていきます。
私たちはこれまで通り、

  • 丁寧なケア
  • 安心できる環境づくり
  • 職員が働きやすい職場づくり

を大切にしながら、地域の暮らしを支えていきます。


最後に

1月は、新しい一年の始まりです。
今回の件でご心配をおかけしていることは重く受け止めていますが、
私たちはこれからも、事実に基づき、誠実に説明を続けていきます。

地域の皆さまに安心していただけるよう、
そして行政にも、地域のためにより良い判断をしていただけるよう、
粘り強く向き合ってまいります。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

行政訴訟、この1年 ー戦いではなく真相を明らかにするー

行政訴訟を通じて、地域の「当たり前」を守るために

私たちが暮らす大月市では、行政の判断が私たちの生活に大きな影響を与えています。
道路、福祉、医療、子育て、防災──どれも行政の決定によって形づくられています。

しかし、行政の判断が必ずしも正しく行われるとは限りません。
説明が不十分なまま決定が下されたり、現場の実態と合わない運用が行われたりすることもあります。
その結果、住民の生活や地域の事業が不利益を受けることもあります。

行政訴訟とは、こうした「行政の判断が適切だったのか」を司法の場で問い直すための制度です。
決して“争いを好んで起こすもの”ではなく、
行政の透明性を高め、住民の権利を守るために用意された正当な手続きです。

なぜ今、この問題を共有するのか

今回、私が行政訴訟に踏み切った背景には、
「現場の声が行政に届かないまま、重大な判断が下されてしまった」
という深い問題意識があります。

行政の判断が誤れば、影響を受けるのは私ひとりではありません。
同じように事業を営む人、福祉サービスを利用する人、
そして地域の暮らしを支える多くの住民の皆さんです。

だからこそ、
“行政の判断は本当に正しかったのか”
を明らかにすることは、地域全体の未来に関わる大切な作業だと考えています。

行政を敵にするのではなく、地域を良くするために

行政訴訟という言葉は、どうしても「対立」や「争い」を連想させます。
しかし、私が目指しているのは対立ではありません。

行政が誤った判断をしたなら、それを正し、
同じことが二度と起きないように仕組みを改善すること。
それこそが、地域の信頼を守り、行政と住民が協働するための第一歩です。

行政も住民も、目指すべきは同じはずです。
“安心して暮らせる大月市をつくること”
そのために必要な対話と検証の一つの形が、今回の行政訴訟です。

最後に──住民の皆さんへ

行政の判断に疑問を持つことは、決して悪いことではありません。
むしろ、地域の未来を守るために必要な姿勢です。

今回の訴訟を通じて、
「行政の透明性」「説明責任」「住民との対話」
がより大切にされる大月市になっていくことを願っています。

そして、この問題を“自分には関係ない”と思わず、
地域の一員として関心を寄せていただければ幸いです。

くまさん受難ー問題の本質は?ー

連日、熊の被害報道で「またかぁ」の感を否めません。確かに熊の被害にあって死者も出てる地域では他人事ではありません。身近に迫る恐怖と先を見通せぬ不安にかられていると思います。

しかし、どうしてこんな状況を招いてしまったのか。少なくとも「熊さん」の責任ではありません。熊さんが人里近くに出没せざるを得ない状況を作り出したのは、間違いなく我々、人間の仕業です。熊さんにとっては災難です。言い方を変えれば「人災」と言えます。

我々、人類が「経済最優先」で乱開発を第一次産業革命以来、急速に進めてきたつけです。それだけ「資本主義経済」の旗印の下、「地球」を痛め付けてきた結果です。しかも人類はその事に薄々気付いていても、「経済成長」のマジックで忘却の彼方です。情けない人類は相変わらず対症療法のお門違いの「熊退治」にはしり、「本質」を見ようとしません。たぶん、本質が見えている人は少なからずいるハズ。でも本質に迫ろうとすると経済の甘い果実が目の前にちらつきその誘惑に負けて禁断の果実を口にしてしまうのです。一方で、その禁断の果実の誘惑を人類は引っ提げて生きてゆかなければならない宿命を抱えているのかもしれません。

しかし、人間は果実を独り占めしていいわけではありません。人類は本来「共存」という知恵を持っています。そうしなければ生物として存続できないからです。今こそその知恵を発揮すべき時でしょう。

なんの罪もない熊さんにとって受難な日々が早く終わるように祈りつつ・・。

「真摯さ」—ドラッカー流トップが示すべきもの—

サントリーホールディングスの新浪剛史前会長が9月1日付けで辞任した。

私は起業する前に新浪氏の言動に感銘を受け私淑していた者の1人だった。ローソンを軌道に乗せた氏の手腕や熱意は「現場」感覚のエネルギーで溢れていたものだった。ところが、今回の辞任の記者会見では、その当時の熱量は新浪氏から微塵も感じられなかった。「言い訳」「保身」にはしる新浪氏の態度は「真摯さ」の対極にある姿だった。

組織のトップは社会的な存在である。単に利益を積み重ねるだけの経営者では「トップ」とは言えない。パーパス(志)が問われているのだ。自分だけ、会社だけよければそれでいい。世界の仕組みはそんなトップを見逃すことはない。

「真摯さ」がなければトップの存在意義はない。その真摯さとは何か。ドラッカーは「道徳」「徳性」といった概念で示している。

一方で、ドラッカーは「真摯さを明確に定義するのは難しい」としつつも、真摯さの欠如が示す行動と特徴を次のように整理した。

「人の強みより弱みに目がいく者」「何が正しいかより、誰が正しいかに関心を持つ者」「真摯さよりも頭の良さを重視する者」「有能な部下に脅威を感じる者」「自らの仕事に高い基準を設定しない者」。また、ドラッカーは真摯さとは、生まれつきの才能ではなく、日々の行動や決断を通じて磨かれるとしている。

新浪氏は記者会見で自らの「潔白」を次のように述べた。「同友会には透明性の高いガバナンスがあるので判断を任せる」「警察から捜査を受けた会長・社長は絶対に辞めないといけないのか。私はそういう前例を絶対つくってはいけないと思う」……(新浪氏談)。この「潔白表明」に私は違和感を覚えた。「保身」である。もはや真摯さのかけらも感じられない。徳性を求められるトップの姿はどこにもなかった。

「驕る者久しからず」…..残念である。